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"皇国史観の生みの親"の評伝を読んだ(平泉澄:み国のために我つくさなむ)(179)

「ブタに歴史はありますか」でおなじみ。

皇国史観の総本山にして日本中世史の生みの親、平泉澄。

 

全然おなじみじゃないと思いますが、

せっかく最後まで読んだので感想を書きます。

数は少ないだろうけど、必要としている人に役立つかもしれない。

 

 

平泉澄とは

東京帝国大学文化大学国史学科教授。

皇国史観の本家本元です。

戦中は陸海軍に強い影響力を持ち、終戦とともに帝大教授を辞職。

 

当時は「歴史が人間の生き方を左右する」時代。

人文科学の一分野に収まらない、強い影響力を持っていました。

(史学に哲学と修身が一体となったような感じ)

 

国体護持のために尽くした勤王の志士の生き様を学び日本人の生き方を説く。

それは立憲君主国家を守る道具であり、

天皇中心の国を守るための理論的支柱の一つでした。

 

研究者としての初期の平泉澄

中学時代から史跡巡りや論文執筆を行っており

帝大では“恩賜の銀時計組(優等生は大正天皇から時計を賜る)”、主席卒業です。

史料編纂掛への就職を断り、大学院に進学。国史学科の中世史の講師に

(中世史担当となったのは、空きポストとの兼ね合い)

 

元々は実証的な史学を学び、面白い論文も発表してます。

「中世に於ける社寺と社会との関係」にある「アジール論(犯罪者の避難所)」

が紹介されています。

 

アジールの説明も簡単に。

 

日本でも、政治犯が逃亡する場所はだいたい決まってて

(吉野→十津川→伊勢のルートとか北陸とか)

既存のピラミッドから外れた、別のネットワークがあるのが推察されます。

平泉論文は「中世は統一した中央権力がなく、社寺がその役目を負っていた」と。

 

論証はまだこれからという段階ですが、着眼点が鋭い。

何より「日本中世史」が出来たばかりの時代。出版は1926年です。

そのまま研究を積めば、網野善彦や佐藤進一のような、”歴史に残る”歴史家になっていたんでしょうか。

 

皇国史観の誕生

1931年にヨーロッパ留学から帰って、急激に右傾化。

当時はマルクス主義者・革命勢力(左翼)が大学内外に急増していたので

それに対する危機感もあった模様です。

 

平泉澄の考えは、神皇正統記や橋本左内の紹介をしつつ

天皇を敬い忠義を尽くすことを力説します。

 

革命思考と正反対、権力者側が統制を厳しくする思考。

皇国史観なら、体制を転覆することがないし、

「強化」用のツールとしては都合がいい。

それに、東大教授・歴史家のお墨付きと天皇家の権威も使える。

 

若い頃より、積極的に政治家・軍部・皇室へアプローチを続けていたのが実り

歴史と思想と教育が統合したような「皇国史観」とその実践が生まれます。 

一番の読み所は「クーデターとの戦い」

彼のすごいところは、東大や軍の教え子からの情報ネットワーク。

2.26のクーデター計画も早期に察知し、対策を打ってます。

(「天皇はすごい、言うことをきけ」と講演をするだけやけど)

 

太平洋戦争のミッドウウェー海戦敗北や「講和やむなし」も

早期に把握しています。

特攻兵器(回天)の開発者(教え子)に新兵器開発を以来したり、

化学兵器(相手は、後に731部隊に所属する科学者)の開発を依頼したり、

当時の価値観なら「やるべきことをやってる」人。

闇雲に「必勝の信念」を唱えるような非科学的な人間ではない。

 

肩書きこそ歴史学の教授ですが、

政治家、陸海軍要人ともネットワークがあり

終戦直前期の「重要人物の一人」と言えます。

 

8.14クーデターとの関係

天皇による聖断(ポツダム宣言受諾の決定)の後、

陸軍による皇居占拠&戦争継続目的のクーデター計画がありました。

日本のいちばん長い日(決定版) 運命の八月十五日
 

ソ連の電撃参戦から玉音放送まで、

日本史でも一二を争うドラマチックな展開が続きます。

その中で、一歴史学者である平泉澄も重要な役割を演じました。

 

日本が占領される(しかも無条件降伏で)と

天皇を中心とした統治体制が危ない。

戦況が悪化しているとは言え、平泉としても喜ぶ状況ではない。

 

陸軍の中枢には、平泉澄の門下生がたくさんいました。

政府・軍関係者との面談で、「やれ」と後押しすればクーデターが決行される

状況でしたが、実際に後押ししたのかどうかは自伝でも言葉を濁してます。

(積極的に賛成はしなかったらしい)

 

この時期は、関係者の手記がたくさん残ってますが

照合すると面談日が食い違っていたり、自伝ではなぜか触れていない内容があったり。

「本人の思い出話は当てにならない」「やっぱり評伝が必要だ」というのも

よく分かりました。

自伝は1980年刊行。

大きめの図書館なら収蔵してますので、気になる方は取り寄せてください。

 

あれ、戦犯じゃないの?

終戦直後に東大に辞表を出して、実家に帰ります。

公職追放も、政治家・軍との関わりを考えれば

大したダメージではないでしょう。

 

同程度の政界への関わりでA級戦犯にされそうになった人もいますし

(大川周明:法政大学教授、思想家)

マッカーサーからは「軍人抑制に一定の功績を残した」として

協力を求められたという話もあります。

 

戦後の平泉澄

戦後は、敗戦の2週間後から地元での講義を再開し

しばらくして銀座の一等地に事務所を構えて、

戦前から続けていた青少年教育も本格始動。

 

講演で全国を飛び回ったりと

時には自由党(保守合同の直前です)の憲法改正に意見を求められたり。

70前まで講演中心の充実した生活。

 

平泉澄は90歳まで長生き。

奥さんとも添い遂げましたし(奥方は82歳で死去)

息子は東大の歴史学の教授で孫2人は神官。 

 

なんで幸せな人生を送って、畳の上で死んでるんだ。

(暴漢に刺されるとか、もっと悲惨な末路をたどったとばかり)

 

どの道を選ぶかは本人の自由だけど

歴史家としての素養は十分すぎるくらいあったし、

教育者としての使命に目覚めてそれを貫いた。

 

「なんとなく後醍醐天皇が好き」で「いつか神皇正統記を読みたい」という

私のような人間には、迷惑極まりない存在です。

 

南北朝時代を思想教育に利用し、

戦前の室町幕府研究、戦後の南朝研究をやりづらくしました。

東大の中世史の発展を、長年妨害してます。

 

皇国史観の大家としてではなく、歴史家として業績を残して欲しかったと思います。

 

素養があり面白い論文を書いていた、それは間違いないと思います。

 

「功」「罪」どっちが大きいか

とはいえ、それも人生なんだなあと思う。

 

何になりたいかは自分で決めるものだし、オールジャパン(翼賛)体制の中で

軍人や青少年の育成に命をかけ、戦後もそれを貫く。

 

今の価値観なら「罪」>>>「功」に見えると思いますが

もしアメリカといいタイミングで講和できていれば、

日本の敗戦、解体を防いだ功労者の一人に数えられていたかもしれません。

それとも、クーデターを扇動した、極悪人として処刑されていたか。

 

小林秀雄とか西田幾多郎みたいな大思想家として

皆の記憶に残っていたかもしれません。

 

皇国史観も思想の一つ

あと、戦後の講演&執筆活動について。

講演って「ぜひ講演して欲しい」というニーズがないと、成立しません。

勝手に押しつけて無理矢理聞かせて料金を巻き上げるわけじゃない。

あくまで、求められてやるものです。

 

そもそも平泉澄の講演内容は、戦後の価値観と合わない。

積極的に”やる”動機はないんですよ。依頼する側には。上に目を付けられるし。

 

皇国史観は、戦前・戦中は確かに主流でした。ただ、迷惑だったのは

「軍や文部省と結合して思想教育をした」からであって、

権力と分離されれば「さまざまな考え方」の一つ。

(ナチス研究の禁止=思想信条の自由に反する、みたいな話です)

 

終戦後は皇国史観は下火になりますが、

価値観の急激な変化についていけない・ついていきたくない人は

相当数いたということでしょう。

 

自分が学んだ教科書が 黒塗りにされても、

「塗りつぶした部分」が自分の中から消えるわけではありません。 

 

皇国史観に慣れ親しんだ人間にとっては、戦前の価値観を話してくれる

平泉の存在は、自分の存在を肯定してくれる、

ありがたいものだったのかも知れません。

 

いくら価値観が変わっても、「10」あったものがいきなり「0」にはなりません。

よくて「2」か「3」です。

 

変化は、期待していたよりゆっくり起こります。 

それは良い悪いの問題じゃないし、知性や自覚でもない。

「やれ」と言ったことに全員が従う社会は、あまり健康ではないです。

 

10が3になって、生き残った3が年老いて全員死んだ時点で

パラダイム変更が完結します。

「3」が革命を起こして社会を転覆しないように、

「3」を社会にうまく融和させるような別のコンテンツが求められます。

そのために、平泉澄の講演活動が求められていた。そんな気がします。

(すげー嫌いだけど)

 

まとめ

読めば分かると思いますが、感想の後半部分は、評伝に書いてないことです。

「平泉澄が戦後も引っ張りだこだった」というのは結構な衝撃だし、

それをどう読み解けばいいのか。

 

うかつに結論を出すのは辞めた方がいいと思いますが(皇国史観の人だし)

平泉澄の評伝を手に取ろうという人には、

「評伝に書いていない部分」を考える楽しさが分かると思います。

 

彼は癖の強い人物ですし、現代では「キワモノ」扱いです。

この本を読んだところで、プレゼンが上達したり友達と盛り上がったりという

現世利益は一切得られません。 

読む価値は絶対にありますので、 

本棚に一冊入れておいて、死ぬまでのどこかのタイミングで手に取れば

中身と関係ないかもしれない何かが得られると思います。