以前、とある映画評論家が好きで、記事やインタビューなどをよく読んでいました。
公式情報、監督・スタッフ・出演者のインタビューや
影響を受けた関連作などをすべて調べてか、制作陣の意図通りに読む。
ぜんぜん知らないことをベースに、知らない評論をしてる。これは面白い。
何ヶ月か追っかけて、自分が変化していきました。
「自分の感想が言えない」
同じ準備をしてないければ攻撃されますし、
関連作2〜3本を見てなければ攻撃される。
どこかで見た風景、これは昔のSFファンがやってたのだ。
「定番100冊を読んでから物を言え」
世代的にはそのへんか。
マウントのとり方は先祖代々のやり方だ
この手法は「正しいこと」が一つに定まり、他は「間違い」になります。
正しい資料を探し、それを読み、関連作品を踏まえ、映画を見て…
それは読解と答え合わせ、入試の現代文じゃん。
別の評論家が評論(=彼の感想)を書いたら、
「それは監督が言ってない、○○とインタビューで答えてる」とバッサリ。
評論は「思い込み」と「決めつけ」です。
見た映像を、自分の経験や社会と照らし合わせて解説する。
そもそも製作者は「自分の意図を踏まえて見て欲しい」と思ってる?
「気軽に見に来てね」「楽しんでね」これでしょう。
おかしな解釈や筋違いの批判もされるけど
「まあそんなものかな」で次回作に切り替えるものでしょう。
その評論家には一定のファンがついてます。
お客さんがついて、生活ができてるなら、商業的に正解なんでしょう。
教養主義、古典旧作主義が廃れたのも、おそらく同じ理由でしょう。
「先輩がうざい」これだ。